それは、ちょっと退屈するくらい、平和な平和なある日の話。
学校は振替休日で、おれも名雪もゆったりくつろいでいた。
『名雪、祐一さん、今日は仕事が長引きそうなので、昼食と夕食は二人で食べてくださいね』
朝食の片付けを終えた秋子さんが、台所から顔をのぞかせた。
『は〜い』
ソファーに寝っころがっていた名雪が、どことなくうれしそうに、手をあげながら答える。
おれも
『わかりました。なんか適当に食べときますね』
と答え、秋子さんは出かける用意をしに部屋へ向かった。
『……秋子さんって何の仕事してんだ?』
ふと、名雪に尋ねてみる。
『前にも言ったと思うけど、よくわからないよ』
即答。
『やっぱそうか……名雪は気にならないのか?』
『う〜ん……』
おもむろに隣でだれていたけろぴーを引っぱりあげ、
『ちょっとだけ、気になるかも』
と答えた。
『んじゃ、ちょっとだけ、つけてみないか?どうせ暇だろ』
誘ってみる。
『そうだね……夜まで暇だし、行ってみよっか。でも、お母さんには内緒だね』
『あらあら、何の相談しているのかしら?』
不意に、秋子さんが顔を出した。
『あ…秋子さん!』
『お母さん!?』
すっとんきょうな声をあげて、二人揃って飛び上がった。
『どうしたの?そんなにあわてて……』
いつもの、頬に手を当てる仕草で、秋子さんはにこやかに尋ねる。
『なんでもないっ。別に怪しくもなんともないよ』
体を硬直させながらそう言っている名雪が一番怪しい気がするが、あえてそれには突っ込まないでおく。
とりあえずおれも、
『ええ、名雪の言うとおりです』
としらを切った。
流れる、一瞬の間。
『そうですか。じゃ、行ってきますね。ご飯のほうよろしくお願いします』
何事もなかったかのように、ゆっくり玄関へ向かう秋子さん。
笑顔で、しかししっかりと、出ていくのを見届ける名雪とおれ。
やがて、玄関が静かに秋子さんを送りだした。
おれはドアに近づき耳をそばだてて様子を伺い、戻ってきそうな気配がないのを確かめる。
そして、紀憂であったとわかり、ほっと胸をなでおろした。
『ふぅ〜……さすがは秋子さんだな。あのタイミングで顔を出すとは恐れ入ったよ』
ソファーに身をなげだしながらつぶやく。
『うん……そう、だね………』
名雪も緊張しているらしい。声に動揺の色が見えた。
『さて……そろそろ出るか。見失っちゃまずいしな』
『祐一』
おれが立ち上がろうとすると、不意に名雪がくぃっと袖を引いた。
見ると、かなり嫌そうな顔をしている。
『どうした?やめるのか?』
名雪はじっとおれを見据えて、
『やっぱり、後をつけたりするのってよくないと思うよ』
と言った。
袖を握る手に力がこもるのが、服の上からでもはっきりとわかる。
…確かに、名雪の言うことももっともだ。だが、秋子さんの職業なんて想像さえつかない。
そんなものを前にして、この好奇心をどうして止められようか。
『まあ、名雪がそこまで言うんならしかたないか。もう秋子さんが行ってから相当時間たってるしな……』
口だけ同意。
『ほんと?』
疑わしそうな目見上げてくるので、
『ああ、本当だ』
と名雪の頭を撫でながら答える。
案の定、名雪は
『じゃあ、信じるよ』
と顔を赤くした。
名雪からの追求をかわすのに、これかイチゴサンデーが有効なのは、あの冬のイチゴサンデー7つで実証済みだ。
それにしても、これからどうするか……
今一人で出かけようとしても名雪は絶対についてくるだろうし、陸上部の足を振りきれるわけもない。
捕まった挙げ句イチゴサンデーを要求されるのは、火を見るよりも明らかだ。
……全く困った。有効な手札が一枚もない。
あれこれ悩んでいると、不意に
『ピンポーン』
と玄関のチャイムが鳴った。
誰か来る予定でもあっただろうか。
『誰だろ?祐一誰か呼んだ?』
『いや……』
不審に思いながら、玄関に近づく。
おそるおそるドアを開けると、そこには黒づくめの男が立っていた。
『あの……』
『水瀬秋子はいるかね?』
おれの言葉を遮って、突然男が口を開いた。
……ただ者じゃない。
とっさに隣にいた名雪を手で制し、一歩下げさせる。
あの秋子さんをフルネームで呼び捨てにするなんて、普通の人にできることじゃない。
加えてこの服装。
帽子も、グラサンも、スーツも、靴も、すべてを黒で統一しているのだ。
怪しい…なんてもんじゃない。
ただの民間人とは思えようはずもなかった。
おれはじっと相手を見据えて、
『誰だあんたは』
と、きっとにらんだ。
すると、男は鼻でふっと笑い、
『なかなか度胸のある小僧だな。だが、質問しているのはこちらだ』
と言うと、異様に冷たい目を向けてきた。
『水瀬秋子はどこへ行った?』
…応えるべきか否か……
ただでさえ怪しいこの男を刺激するのはあまり得策でないように思えた。
そもそもおれも秋子さんがどこへ行ったのか、詳しくは知らない。そこで、
『知らない。秋子さんは仕事に行ったし、おれたちは秋子さんの職業について何も聞いてない。だから、知らない』
おれはそこまで一気に言いきると、再び男を見据えた。
『ふむ……』
男はしばし黙考し、
『ならば、こちらの予想どうりに事が進んでいるということか』
とつぶやいた。
……どういうことだ…?
さっきからわけがわからない。
いきなり現れた男が秋子さんの行方を尋ね、いないと聞くと、それが予想どうりだと言う。
いったい、悪い夢でも見ているのではないか…
『何を考えているのかは知らんが』
男の声に、目の前の現実に引き戻される。
『当初の計画どおり、君たちを存分に利用させてもらおうか。子供を人質に捕られてはさしものやつといえども何も出来まい』
と、名雪のほうに手をのばしてきた。
『やめろっ。名雪に手を出すな』
それを見て、おれはとっさに叫んでいた。
名雪が連れてかれるくらいなら、刺し違えてでも止めてやる。
そんな眼を、男に向けた。
『ほう…さっきからなかなか見所のある小僧だ。だが、それもほどほどにしないとな』
にたりと笑い、今度はおれのほうへ手を伸ばしてきた。
捕まる……
そう思った、まさにその瞬間。
『そこまでよ』
聞き覚えのある声が、男の後ろから鋭く飛んだ。
隣から名雪の戸惑う声が聞こえる。
それもそのはず。そちらへ目をやると、なんとあの秋子さんが拳銃を構えているではないか。
しかも、その手の中にある拳銃は、まっすぐ男の頭に向けられている。
『……なぜわかった?』
男が口を開いた。
かなり意外だったらしく、動揺している様子がはっきりと見てとれる。
『企業秘密です。でも、子供たちを狙うのは感心できませんね』
いつもの口調で、さらりと何でもないことのように言う。
その顔にはあまりにも不似合いな拳銃を構えながら、
『退きなさい。そして、この子たちにはもう手を出さないこと。そうすれば今は見逃してあげるわ』
と言った。
一瞬、あたりの空気が静まるのが、肌に感じられる。
『……殺せ』
男の声が、静かに響いた。
いつのまにか絡んでいた名雪の手に、わ、という声とともにぎゅっと力がこもる。
『どうせ失敗した者を生かしておくような甘い組織ではない。仲間に同胞殺しをさせるくらいなら、ここでお前に殺られた方がましというもの』
…この男は今、秋子さんに自分を殺せと言っている。
それだけでも信じられないと言うのに、その言葉の中身に反して、声は驚くほど静かで、よどみないものだ。
そして流れる、かすかな沈黙。
その言葉に、秋子さんはふっとため息をついた。
『お断りします。私がむやみやたらに始末しないのは、あなたがたも知っているでしょう?』
隣から聞こえた安堵の息とともに、いつのまにか絡んでいた名雪の手から力みが抜けていく。
『だがっ……』
と男はいきり立ったが、そのすべてを言いきることは出来なかった。
………そこに見えたのは、静かにほほえむ秋子さん。
そう……いつもの仕草で、穏やかなほほえみを浮かべる秋子さんだ。
静寂が、あたりを包んだ。
『……そうだな。戻って、皆を説得してみよう。きっと、君のそのやさしさが組織に必要な日がくるに違いない』
秋子さんの横を、男が抜けていく。
その後ろ姿に、秋子さんは
『よろしくお願いします』
と、深々と頭を下げていた。

………平和で、ちょっと退屈になると思ってた、ある日の話。
終わってみると、なんて不思議なことが起きてたんだろうと思う。
後から聞いた話だが、秋子さんはある情報統制組織の要職についていたらしい。
長年組織の一員として活躍していたが、いわゆる「知りすぎた人間」として始末されかけていたそうだ。
うすうすその気配を感じていた秋子さんは、おとなしく組織に従うふりをして機をうかがっていたが、
依頼された仕事に不意に嫌な予感を感じたらしい。
いわゆる、虫の知らせというやつだ。
感じるまま家に急ぎ戻ってみると……

『祐一、用意できた?』
突然耳に入ってきた、長年聞き慣れたおっとりした声に一気に思考が中断する。
見上げると、花嫁のヴェールをまとって笑う名雪がいた。
そう、今日はおれと名雪の結婚式なのだ。
『三時間前にはもうできてる』
おれが言うと、名雪は
『うそつき』
とまた笑った。
『なんだようそつきって』
実際には準備が終わったのは一時間前だが、なんとなくしらを切ってみる。
だが、
『祐一、ここに来たの二時間前だよ?着く前に準備が終わるなんてすごいねぇ』
………完敗。
来た時間など、頭から完全に吹き飛んでいた。
『花嫁を結婚式の日にだますなんて極悪人だよ』
いまだ、のんびり口調できわどい言葉を発するところは変わってない。
『その極悪人と結婚するのはどこのどいつだよ』
くやしいので反撃してみる。
『それは……』
名雪が返答に詰まっていると、不意にカチャッとドアの開く音がした。
そこにいたのは、秋子さんとあの黒づくめの男だった。
『式の用意はできたかね?』
『今日の式には、いろんな方が見えてるわよ。がんばってね』
二人とも、やわらかな笑みを浮かべている。
『うんっ!』
……あの日から約三年。
改めて組織に迎え入れられた秋子さんは、組織のトップにまで上り詰め、今では組織の業務の中核はジャム工場になっているらしい。
世界の裏でうごめくような組織がジャム工場になるというのもすごい話だが、さすがは秋子さんといったところだろう。
…そして、おれたちは今、さまざまな人に見守られて、新たな道を歩み始める。
これから一生続く、幸せの道を……

  fin