無事進級し、おれと名雪が付き合いはじめて一年が立とうとしていた、冬のある日。
名雪も部活をとうに引退し、毎日商店街に寄って帰るのが日課になっていた。
『お腹すいたね、祐一〜』
隣で手をつなぐ名雪が、甘えるような声を出す。
『お前さっきたいやき食っただろ。何で腹減ってんだよ』
『だって、祐一と半分こだったんだもん』
名雪は口をとがらせながら、まんざらでもなさそうだ。
『あとにしろ、あとに。秋子さんのご飯が入らないぞ』
『それはやだよ〜』
そんないつものおしゃべりをしながら、おれたちは家へと急いだ。

『ただいま〜』
おれと名雪が学校から帰ると、ちょうど秋子さんが出かけようとしているところだった。
『あれ?秋子さん、どこかへお出かけですか?』
『ええ…冷蔵庫見たらほとんど何もなかったから、ちょっとお買い物に。今日のお夕飯に、何か食べたい物とかありますか?』
珍しいことに、今日は夕食のメニューが決まってないらしい。秋子さんの作るものはどれもおいしくてバラエティーに富んでいたが、ただ一つ。ここ水瀬家で俺がまだ食べたことの無いものがある。
『鍋なんてどうでしょう?』
と聞いてみた。
『お鍋ですか?そうねえ、最近やってなかったから、たまにはいいかも…』
『わ、鍋…?』
名雪が口を挟む。心なしか顔が引きつっているような……?
『どうしたんだ、名雪』
名雪はそれには答えず、
『お母さん、鍋って、何鍋にするの?』
と聞いた。何やら真剣な様子。
『そうねえ、何鍋がいいかしら…祐一さんは何かリクエストとかありますか?』
そう聞かれたおれは少し考えて、
『特に食べたいっていうのはないですけど……なんかお薦めみたいなのってありますか?』
と聞いた。
すると秋子さんはふいに目を輝かせ、
『はい』
と答えた。
『あ、それじゃあそれにしましょうか……って名雪?』
横を見ると、名雪はさらに顔をこわばらせていた。
『おまえさっきからどうしたんだ?体調でも悪いのか?なら…』
『祐一』
ふいに名雪がつぶやく。
『何鍋か聞かなくていいの?』
……どういう意味だ?
秋子さんお薦めのもので、いままでまずいなんてものは……
そこまで考えて、ようやくおれは名雪の示唆する危険性に気がついた。
『秋子さん』
『はい?』
おだやかに答える。
おれは意を決し
『だしは何を使うつもりですか?』
と聞いた。
『いろんなものですよ』
そう言って、秋子さんはほほえみを浮かべた。
はっきりと材料を言わないのはさらに怖い。
セコムin my bodyが警告を発しているのを感じる。
…ついに、おれは核心に迫った。
『ジャムなんて、入れませんよね?』
背中を冷や汗がつたう。
心臓の鼓動が高なり、身体がこわばる。 おれは息を飲み、秋子さんの答えを待った。
『そうねえ… 名雪はどっちがいい?』
『入れないほう』
間髪入れずに答えた。あの名雪が、かなり真剣な表情だ。
『そう…ちょっと残念ですけど、名雪もこう言ってることだし…今日はジャムには頼らない鍋を作ってみましょうか』
……よっしゃ!
おれと名雪は心の中でつぶやいた。
秋子さんには悪いが、ジャムだけは二度と口にしたくない。
ジャムが入らなければ、どんな鍋だろうときっと極上の鍋ができることだろう。
『それでは、買い物に行ってきます』


『ただいま』
玄関から声が聞こえた。
時計を見ると、すでに七時半。おれは急いで階段を下りて、
『秋子さん、何か手伝えることとかありませんか?』と尋ねた。
キッチンをのぞくと、秋子さんは忙しそうに用意をしている。
おれが夕食の手伝いをしようとするなんて極めて珍しいことだが、なんのことはない。ただ腹が減っていただけだった。
『じゃあ、お皿並べてもらえますか?』
どうせ料理なんて手伝えないので、素直にそれに従うことにする。
しばらくすると、名雪も自分の部屋から下りてきた。
『お母さん、もう出来た?』
『もうすぐよ』
そう言って秋子さんは鍋に蓋をした。
食欲を誘う、いい匂いが鼻をつく。
『名雪、お前も皿並べとけ』
『祐一よっぽどお腹すいてるんだね。祐一が手伝うなんて』
さすが名雪。妙なとこで鋭いな……いつもは寝ぼけてるのに。
『祐一失礼なこと考えてない?』
『いや、そんなことはないぞ』
…図星だった。
『さあ、二人とも。できたわよ』
そうこうしてるうちに、鍋は完成したらしい。秋子さんがキッチンから鍋を持ってきた。
『わ〜い、早く食べよう♪』
名雪がうれしそうに声をあげ、顔をほころばせた。
付き合いはじめてそろそろ一年になるけど、やっぱり名雪の笑顔はいいもんだな……
などと自分でも恥ずかしいことを考えながら、おれは席についた。
『いただきま〜す』
おれは早速鍋の蓋を開けた。
中には、何か白いものがふんわりと浮かんでいた。よく見ると、何かの毛のようにも見える。スープをすすってみると、肉のうま味がでた、なかなかいける味だ。
そこでおれは、
『秋子さん、これ何の鍋なんですか?』
と当然の疑問をなげかけた。
秋子さんはほほえみながら、
『ポテト鍋ですよ』
と答えた。
『へえ〜、ジャガイモの鍋ですか。だしは何使ったんです?』
『ポテトですよ』
と再びほほえむ。
『へえ…』
って、イモからこんなコクのあるだしがでるものなのか?しかもジャガイモ鍋のくせに、いくら探してもジャガイモが見つからない。それどころか、鍋の底まで妙な毛のようなのと肉しかでてこなかった。
『秋子さん、これって……』
ピンポーン
言いかけて、玄関の呼び鈴がなった。
秋子さんが玄関に向かう。突然の訪問者に、おれと名雪も後に続いた。
『ごめんくださ〜い』
見ると、やたらと目つきの悪い若い男と、手に黄色いバンダナをまいた女の子が立っていた。
『ああ、往人さんと佳乃ちゃんですね』
秋子さんと彼等は知り合いのよう。
『お知り合いですか?』
一応聞いてみる。
『いいえ、はじめましてですよね?』
『はい、そうですけど…?』
戸惑いながら女の子が答えた。
…戸惑うのも当然だろう。ていうか秋子さん、何で名前知ってるんだよ…
まあ、秋子さんだから。全てがそれで片付くような気がした。
『それで、何かご用ですか?』
何事もないかのように秋子さんが尋ねた。
『えっとぉ…』
『こいつが話すと一日かかるからおれから話すぞ』
男のほうが割り込んだ。
『往人くんひどいよ〜』
少女は反論したが、往人と呼ばれた男は無視して続けた。
『この辺に変な白い毛玉が飛んでこなかったか?』
ん?……白い毛玉?
『ぴこぴこ鳴いてて、ポテトっていうの』
『……ポテト?』
名雪も怪訝な表情を浮かべる。
そして、二人で顔を見合わせ、秋子さんを見た。
秋子さんは少し間を置き、軽くため息を漏らして
『見ます?』
とだけ言った。
客人ともども、ぞろぞろと食卓へむかう。
『名雪』
『なに?祐一……』
心なしか声がふるえている。
『もし、お前が思ってるような事態にだったらどうする?』
『…きっとどうしようもないよ』
もう、半分泣き声だ。
『きゃあぁぁぁ……』
『ポテトォォ〜』
目の前で崩れ落ちる少女。それを必死で支えようとする若い男。
『お母さんっ……!』
それだけ言うと、名雪は気を失ってしまった。
…目前には、秋子さんの笑顔。
背中に戦慄が走る。
おれには、その様子を窓の外の二つの目が見つめていたことなど、知る由もなかった……

fin