我が輩、名をニコラス=ド=フラメルという。
この世に生を受けて、はや千年。
数知れず人の輪廻を見つめてきた。
そんな我が輩さえも驚かす、不可思議な出来事も世の中には多い。
かの年、かの夏。
我が輩は、一人の少女に出会った。


あれは、我が輩がどこぞの片田舎にいた頃のこと。
『おねえちゃ〜ん、見たことない犬がいるよぉ』
と、目の前の少女が我が輩に笑いかけてきた。
……犬?
我が輩のことだろうか。
返事の聞こえた方を見ると、少女よりは幾分大人びた、それでもやはり少女の域を出ない年と見える娘が、腕を組んで立っていた。
『こら、佳乃。むやみに見知らぬものに近づくな』
口調こそ厳しいものの、目はほほえんでいる。
会話から推測するに、目の前の少女の名は「佳乃」といい、その後ろの娘は「佳乃」の姉らしい。
付け加えるならば、極度の姉バカ……とでも言えようか。
この仲のよさそうな姉妹を見ていると、心が和んでくる。
とはいえ、先ほど「犬」と呼ばれたことについては釈明しておかなければ。
我が輩は、決して、犬などではない。
だが、口をついて出たのは、
『ぴこぴ〜こぴこっ』
と、この国の言葉とはかけ離れたものだった。
……これはどうしたことか。
我が輩はしばし呆然とした。
問題なく理解していた言語にも関わらず、まさか言葉として発することが出来ないとは、夢にも思わなかったのだ。
だが、「佳乃」は我が輩の動揺など意に介さぬように
『すっごぉ〜い。ぴこぴこしゃべったよぉ』
と驚いている。
彼女にしてみれば、「得体のしれないもの」がしゃべったということだけで十分驚くに値するのだろう。
だが、我が輩にしてみればこれほど不本意なことはない。
なんとかしてこちらの意図を伝えようと、自分の発しようとする言葉を一字一句反雛し、集中する。
我が輩は、決して、犬ではない。
そして、ついに発せられた言葉。
『ぴ〜こ〜…ぴこっ』
……撃沈。
なぜに神は我が輩にこのような仕打ちをなさるのか。
情けなさに、全身から力が抜けていく。
あまりのショックに気を失いかけたが、
『よしっ』
と不意に頭上から聞こえた声に、気を取り戻した。
声に従って重い頭を上げると、なにやら自信たっぷりな様子の「佳乃」が、我が輩を指さしている。
『君を、ポテト28号に任命するっ』
……は?
『ポテト28号は、ひまひま星人2号でもあるんだよっ』
……おい。
口を挟む間もなくまくしたてられた。
しかも完全に意味不明ときた。
果たして、「佳乃」は本気で言っているのだろうか?
だがそのとき、我が輩の頭に一つの考えがひらめいた。
…これは、世に言う「ボケ」なるものに違いない。
我が輩、これまで漫才を低俗なものと認識していたが故に、我が輩自らそれを行おうとは思わなんだが、それには「ツッコミ」なるものが必須ということは知識として知っている。
今、この状況においては、「佳乃」に話を合わせた方が、何かと都合は良さそうだ。
……長生きしても、未知のことには緊張が走るもの。
呼吸を整え、いざ。

『ぴこっ、ぴこぴこ〜』

……しまった。
しゃべれないことなど、すっかり頭から抜けていた。
さらに、今のは明らかにタイミングが悪い。
『おっ、ポテトも喜んでるよぉ』
と「佳乃」が歓声をあげたのも、仕方のないことだった。
かくして、自らのミスによって我が輩はポテトと命名されてしまうこととなり、そしてこれが「佳乃」との出会い、ひいてはあの出来事への物語のプロローグとなったのである。

我が輩が佳乃と出会ってから、およそ10年が経過した。
佳乃はその天然ボケっぷりに磨きをかけながらもすくすくとまっすぐに育ち、聖は医者になった後も、姉バカとメスさばきに磨きをかけていた。
この姉にしてこの妹あり。
逆も容易に成り立つ、そんな霧島姉妹に囲まれ、我が輩ものんびりと暮らしていた。
昼はゆったりと散歩か聖とのまったりトークを楽しみ、夜は田舎特有の空気のなかで、佳乃と他愛ない話で盛り上がる。
家庭を持たなかった我が輩にとって、この上ない至福の時だった。
そんなある日。
我が輩は、だらだらと外を散歩していた。
本来このような動きは好まぬのだが、この季節はそうもいかない。
その場に倒れ込みたいとも思うのだが、そんなことをしたら、天然のオーブンが、こんがりポテト焼きを完成させる手助けをするようなもの。
否応なしに、だらだら歩くことになる。
そんななかしばらく歩き、気がつくと潮の匂いが鼻をついた。
無意識のうちに涼しさを求めたのであろうか。
神の導きに従い、海へと続く堤防へと歩いていく。
すると、前方に何やら人影が見えた。
このあたりでは見かけない人なので、興味がわいた。
話し相手にでもなってもらうとするか。
そう考えて近づき、階段の下から
“見ない顔だな”
と呼びかけた。
我が輩は、昔のようにぴこぴこしゃべるだけではなくなった。
数年前にてれぱしぃなる技を会得し、今では佳乃との会話は容易にこなせる。
だが聖とはうまくいかないようなので、確率は今のところ五分五分だ。
……と、考えていたが、我が輩の考えは甘かったようだ。
階段の上からこちらを見おろす若者は、珍妙なものを見る目で我が輩を凝視し、あまつさえ
『犬……なのか?』
などと暴言をはいた。
“ふざけるなっ”
当然、我が輩は反論した。
が、男は我が輩の反論を無視して、じっと何かを考え始めた。
待つこと数秒。
『いいもの見せてやる』
と男が言った。
言いぐさには心穏やかでないものがあったが、どうせ暇な身である。
“どれどれ”
と階段を上った。
男は、古ぼけた人形を我が輩の目の前においた。
いい年した男が人形を大事そうにしているというのも微妙な話だが、今は触れないでおこう。
『見てな』
男の顔が真剣になった。
と同時に、男の体から波動が発せられるのが感じられた。
ひょこっ、と人形が立ち上がる。
………これは。
我が輩は記憶の糸をたぐり寄せる。
ふっと深緑の衣の女性が浮かび、つられて次々に記憶が呼び覚まされる。
そう……
翼人、と裏葉は言った。
「翼人であった神奈様の、忘れ形見の力ですわ」
なつかしい裏葉の声がよみがえると同時に、不意に佳乃の顔が浮かんできた。
もちろん、それはいつもの明るい佳乃ではない。
あの羽根に触れて以来、突如生まれた謎の人格。
今、我が輩の目の前にいる男から感じられる波動に酷似したそれをもつ、佳乃だ。
裏葉と佳乃、ひいてはあの羽根との間に、よもやこのような関連性があるとは、予想だにしなかった。
そしてこの男は、佳乃を救うまたとない機会となるやもしれぬ。
佳乃の別人格に翼人が関わってるとすれば、それを抑えることができるのも翼人の力に違いない。
いずれにせよ、確かめる価値はあった。
そこで我が輩は人形を口にくわえ、猛然とダッシュした。
我が輩の外見からすれば、これが一番怪しまれずにこの男を佳乃の元までつれていく方法だろう。
案の定、男は必死に我が輩を追ってくる。
追いつかれぬよう、見失わせぬよう、スピードを調節する。
やがて、佳乃がいる橋が見えてきた。
振り返ると、この世のものとも思えぬ形相の男が目の前に。
さらりとかわし、テレパシーとともに会得した技ですれ違いざまに軽く男の体を浮かしてやる。
その速度も手伝って、見事に川の中へ一直線。
盛大な音をたてて、水しぶきが飛び散る。
水柱をバックにたたずむ我が輩。
“ふっ……”
決まった。
しばし、自らのその姿に陶酔する。
ふと我に返ると、男が佳乃に何か言っているようだった。
急いで佳乃の足元へ行き、適当に話を合わせる。
“かくかくしかじかで……”
はた目にはぴこぴこ。
佳乃はうなずき、
『それは、ご迷惑をおかけしましたぁ』
と大げさに頭を下げた。
『そいつの言葉がわかるのか?』
と驚く男。
『もちろん。親友だよぉ、ねーポテト』
“うむ”
即答する。
『ところで……そのバンダナは何なんだ?』
男はもちろんのことだが、その当事者たる佳乃さえも真実を認識していない、黄色いバンダナ。
………今は、まだ謎のままの方がよい。
佳乃が説明したとしても納得するわけもないだろうが、佳乃と関わる限り、男が力を持っている限り、いずれ真実を知る時が来る。
……思いを巡らしているうちに、話が終わったようだ。
『行こっ、ポテト』
と佳乃が声をかけてくる。
返事をして、家路につこうとすると、不意に佳乃が歩みを止めた。
『魔法が使えたらって、思ったことないかなぁ?』

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